感じ方・考え方が全て同じ人間などいない。
好きだ嫌いだ、賛成だ反対だと言うことは簡単で、それが共通する者で群れることで派閥ができあがる。でも、他人の気持ちや考えを完全に知り理解することは不可能だ。もしその人が自分の考えを表明することに長けていて、それに共感することがあったとしても、それは結局その人が表現した部分における一致でしかない。それを「好き」「嫌い」みたいに二元的に考えてしまうのは危ないなあと思うのである。
感じ方・考え方が全て同じ人間などいない。
好きだ嫌いだ、賛成だ反対だと言うことは簡単で、それが共通する者で群れることで派閥ができあがる。でも、他人の気持ちや考えを完全に知り理解することは不可能だ。もしその人が自分の考えを表明することに長けていて、それに共感することがあったとしても、それは結局その人が表現した部分における一致でしかない。それを「好き」「嫌い」みたいに二元的に考えてしまうのは危ないなあと思うのである。
私は、好きなものに対して盲目的になりたくないと思っている。また、好きなものというわけでなくても、世の中で起きる様々な事柄について、一方向からの意見しか持たない人間にはなりたくない。好きなものに対して盲目的、というのは、いわゆる「信者」と呼ばれる状態のつもりで書いた。例えば好きなアーティストがいれば、そのアーティストが作った楽曲は全て好き、そのアーティストがTwitterなどで表明した意見に(そのアーティストが発した意見だから)すぐ賛同する、そういった状態である。そんな人いるのか、と思う人もいるかもしれないが、Twitterで趣味垢なるものを持っていると結構そういったつぶやきは目に入ってくるものである。最近だと、YouTuberの動画のコメント欄に「見る前からグッドボタン押した!」のようなコメントが見られるが、正直「は?」と思ってしまう。もちろん私がそういう信者のような状態の時期が無かったというわけではない。自分が好きなアーティストが作ったものなんだから素晴らしいものに決まっている、その前提でものを見て、「なんかコレジャナイ」感を感じることがあっても、それを自分の中で無視するのだ。
「なんかコレジャナイ」感を感じていながらなぜそれを表現できないか、それは表現することで信者からアンチ認定されてしまうからである。信者の特徴として、自分の好きなものへの批判・否定に過剰反応することが挙げられる。確かにいわゆるアンチと呼ばれる人たちは信者の裏返しで、例えばYouTubeで動画を見る前から低評価ボタンを押す、気に入らないことをひたすらコメントする、そういう人たちである。しかし、批判・否定をする人の全てがそういう意味でのアンチではない。違う目線から見た1つの意見なのである。好きなものが同じでも、その好きな側面が同じであるとは限らない。それなのに、好きなものの「自分が好きな部分」に対する意見があっただけで、好きなものが同じはずの人を「違う派閥の人」と隔離してしまうのはもったいない。もったいないし危険だ。自分と違う意見を持つ人を視界から排除し、身の回りをどんどん固めていくと、批判的意見に全く晒されない井の中の蛙状態になってしまう。そして、いざ自分と異なる意見にぶつかったときにすぐ抵抗、相手の人格否定に走るような煽り耐性の低い人間ができあがる(そもそもその意見は煽りですらなかったりするわけだが)。これが最初に「好き」「嫌い」みたいに二元的に考えてしまうのが危ないと思うと言った理由である。
もちろん好きなものを否定されれば、悔しかったり悲しかったりするのは当然だ。でも、その否定意見もその人のその目線から見た話であるし、それでも自分が好きであることは変わらないはずだ(変わったらその程度の好きだったってこと)。むしろ冷静にその意見に耳を傾ければ、共感できる部分もあるかもしれない(何か言われてすぐ怒るのって実は図星だから、みたいな話あるじゃない)。その否定意見を発した人が、同じものを好きな人であるのか嫌いだからそれを言っているのかは置いといて、その人を「敵」と認識するのはやめようという話だ。というか自分がそうしようと意識して生きている。「それを言う彼にも彼なりの理由があって…」という話をすると某バンドのボーカルみたいな発言になってしまうが、その彼なりの理由というものを知ることまではしなくても、そういった意見があるということを知り、受け入れるだけで結構視野は広がるものである。
好き嫌いや賛否両論について私がこのような考えを持つようになったのは、最近のYouTubeのコメント欄や、SNSでの炎上、政治・国際関係などを見てのことである。特にYouTuberの動画に多いように思うが、例えば編集ミスを指摘するようなちょっとした否定意見(そもそも否定意見なのかどうかも怪しいが)のコメントにはたいてい「忙しいんだから」云々のかばう返信が付いている。そんなのにいちいち突っかかって暇なのかなあと思ってしまう(編集ミスを指摘するコメントをするほうも暇なのかなあと思うし、なんなら編集ミスを見つけると編集ミスを指摘するコメント無いかななんてコメント欄を探す私も相当暇である)。炎上にしても当事者は「なんでこんなことで…」と思っているかもしれないし、信者を逆上させて面白がってる人もいるんだろうが、そういうのは一歩引いて冷静に見ると、「人間って面白いなあ」みたいな考えになったりする。政治についてどう思うかというのも、政党というのはそもそも基本的な考えが一致しているだけの派閥であって、全ての考え・政策が一致している議員は多くないんだろうし、選ぶ国民側だって必ずしも誰か1人、どれか1政党を選ばなければならないというわけではないと思う。この政党のこの考えには共感するけど、この部分は受け入れられないとか、この政党は全体的に自分と違う考え方だけど、この部分に関しては共感できるなとか、そういうのはあって当然だ(そうだとしても1つを選ばないといけないシステムなので困るわけだが、無関心よりはよっぽどマシである)。最近冷え込む日韓関係にしても、たとえ相手の主張が意味不明なものに感じられても、とりあえず耳を傾ける必要はあると思う。「こんな国嫌い!」で済ませてしまうのはもったいない。
話が広がってしまったが、何が言いたかったかというと、好きなものであっても「好き!!」って言っているだけではなくて、好きだからこそ出てくる気に入らない部分みたいなのを自分で否定することなく積極的に発信していったほうがいいと思っていること。そして、そういった否定意見を見ても拒絶したり反発したりするのではなく、その側面から見た一意見、一発見として受け入れたほうが視野も広がっていろいろな気づきが得られるんじゃないかなって思っているということだ。あなたの好きなものを否定する人はあなたの敵ではないよ。
っていう私の考えは、「好きなものでも批判的なことを言ったりする俺を受け止めてほしい」っていうワガママから来ていたりするし、そもそもこの考え方が実はさらにもっと広い視野を持った人から見たら井の中の蛙状態なのかもしれないっていうね。面白いね。