大人になって中立的な考えしか持てなくなってきた話

こんにちは。

今日は考え事記事です。社会では日々様々な議論が起きています。政治の話もあれば趣味の話もあります。何かの事柄について賛成する人もいれば反対する人もいることは当たり前ですが、そんななかで私は大人になるにつれてどんどん中立的な考えしか持てなくなってきてしまっているという話をします。

自分の意見を明確に持つこと

皆さんは日常に存在する様々な問題について、自分の意見・考えを明確に持っていますか?その考えを人に説明し、意見を持たない人や反対の意見を持つ人を納得させることはできますか?

私は高校生くらいまでは割と盲目的に自分が信じるものが正しいという感覚がありました。もちろん客観的に見ていないわけではありませんでしたが、例えば好きなアーティストの言うことは違うことを言う人がいても正しいと思ったり、なんとなくNHKで放送されていることは全て真実だと信じているような感じです(念の為ですが別に反NHKでは全くありません)。そういった信じやすさのようなものがあると、自ずと自分の意見もそれに寄っていったものになります。「誰々がこう言ってたらしいよ、だからこうなんだと思う」と考えることが多かったと思います。

それが大学生・社会人と年齢を重ねていくうちに、自然とそうなったのか、より広い世界を知ってそうなったのか、「違う考えだけど相手の言い分もそれらしいな」「これって本当にすぐ鵜呑みにしていい情報なのかな」「自分もこう思うって言うことってもしかして危ないかもな」という、自分自身を疑う感覚が強くなっていきました。自分は社会の中では勉強もそれなりにできて、時事問題もそれなりに追っていて、仕事や趣味で様々な情報源を追っているほうだからちゃんと考えられているほうだ、と思えば思うほど、逆に自分が漠然と持っているこの考え・意見って正しいんだろうか、もっと知るべき・考えるべきことがあるのではないか、と思うようになってきたのです。つまり、自分自身を信じた結果生まれるはっきりした考え・意見というものが持ちにくくなったということです。

中立的な考えに落ち着く理由

立場がはっきりせず中立的な考えしか持てなくなった・発信できなくなった理由もなんとなく考えています。

反対の立場の人に攻撃されるのが怖い

SNSが広く浸透し、情報の拡散が早いなかで面識の無い人にも簡単にメッセージが送れるようになったネット上では、様々な立場の人の発信と、その発信を受けての第三者同士の意見のぶつけ合いをよく見るようになりました。ネットは匿名性が高く簡単に様々な人とのやり取りができる一方で、情報は断片的に拡散され文脈が失われていきます。相手の真意や背景を知らないまま表面的な部分を見て意見や感想をぶつけ合うので、しばしば攻撃的なメッセージになったり誹謗中傷が起きたりしています。

そういうネット社会を見ていると、とてもこの中で自分の意見を発信しようなどと思えなくなってくるのです。自分の発言がどこで独り歩きするかも分かりませんし、ネット上のパンという人格に対する攻撃で、一人の人間である私が傷つくことも考えたくありません。もし社会から見て自分が極端な意見を持っていた場合でも、ネット上で発信するというフィルターを通してしまうと非常に当たり障りのない意見になってしまうのです。

ちなみにネット上でなくても、自分の意見を発信した結果それを論理的に否定されると、ああそこまで考えが及んでいなかったなと悲しい気持ちになります。決して人間性を否定されているわけではなくても、なんとなく無駄なプライドが傷ついてしまいます。そしてより深く考えれば考えるほどどんどん自分の意見が薄くなっていく、という話はまた後ほど書きます。

もっと頭の良い人が考えたうえでの議論である

政治・環境問題など様々な社会問題に対して、専門家、政治家、ジャーナリスト、コメンテーターなど、様々な人が意見を発信しています。コメンテーターは一般市民の代表としてタレントがやっていることが多く(ふさわしいかは別にして)、私自身の専門性とそこまで大差ないのかもしれませんが、それでも頻繁にワイドショーなどに出演しているのであれば、様々な社会問題について考えを巡らせる機会は多いと思います。そう考えると、一般人の様々な考えが飛び交うSNSでも、その議論のベースになっているのは自分よりも頭が良いもしくは専門的な人が考えたもののはずです。

じゃあ政治家が考える政治は全て正しいのかといえば全くそんなことはありませんし、だからこそ様々な政党がありあらゆる議論が国会で行われているわけですが、少なくとも私自身よりは政治に詳しく政治の世界のあらゆることを見てきた人たちが議論をしているわけで、そこに素人の私が首を突っ込めるはずがないのです。決して専門性が無いことについて意見を発信してはいけないということではありませんが、私個人としては私がそのとき考えたことはもっと詳しい人から見たら甘い考えなんだろうなと思ってしまうのです。そうしていくうちにこれもまた深く踏み込まない当たり障りのない意見へ落ち着いていきます。

相手の立場を考えるようになった

これも見る世界が広がってのことかと思いますが、相手と考えが合わなくてもそのことだけで相手の全てを決めつけようとすることをしなくなりました。相手の素性が分からなくても、一旦そういった考えを持つ理由があるに違いない、自分が見た側面だけで判断するのは危ない、と思うようになったのです。SEKAI NO OWARIのDragon Nightみたいな話ですね(好きなアーティストの言うことを鵜呑みにすることは無いと言いつつ自分の考え方に大きな影響を与えているのは隠せませんね)。

例えば、未だ収束が見えてこない新型コロナウイルス感染症の蔓延という問題に対して、その対策となるワクチンを打つか打たないかというのは個々人の判断に任されています。私自身はワクチン肯定派でもちろん打っていますし、ワクチンを打つ人が大多数であることは明らかです。だからといって、ワクチンを打たないという選択をしている自分と違う人の存在に向き合ったとき、その選択・考えの良し悪しは置いておいてもそれ自体を否定することをしたくありません。たとえその理由が科学的でないとか、陰謀論を信じているからとかいったものであったとしても、です。少数派の人間を頭がおかしいと切り捨ててしまうことは簡単ですが、その考えを受け入れるかどうかは別にして、その考え自体は尊重すべきだと考えるようになったのです。

ネットを使っていると、自然と自分の好きなことや興味のあることについての話題やコミュニティに偏りがちです。TwitterのフォローやYouTubeのチャンネル登録は自分が好きなものを選ぶシステムですし、広告やニュースアプリの記事はそういった好きなものの選択を元にパーソナライズされた、より好きなものへ範囲を狭めていけるような選択肢を出してきます。気をつけないとどんどん見ている世界は狭くなっていってしまいます。一方で、意識すれば自分の知らない世界というのを簡単に覗き見ることもできます。自分と全く考えの違う、ときには「えぇ・・・」と思ってしまうような発信をしている人も、一人の人間として存在していることが確認できるわけです。そういったリアルな生活の中では出会わないような人の存在も気づくことができ、結果的に自分と異なる考えの人を見てもまあそういう人もいるよね、と受け入れるようになりました。

こうなってくると、絶対こうでしょ、と自分の中で思っていたことが崩れやすくなってきます。よっぽどめちゃくちゃな意見でなければ、言われてみれば確かにそういう考え方もできるな、と思ってしまうのです。その考えに完全に傾くことは無くても、そういった意見を蔑ろにして無責任に「こうだと思う」と発信することには気が引けてしまいます。別に相手と違う意見を言うことが相手の意見を蔑ろにしているわけでは全くないのですけどね。

何も弊害が無ければはっきりした意見が持てなくてもいいかなと思うのですが、1つ最近悩んでいることがあります。それは愚痴や相談を受けたとき、その話の中に登場する人物を無意識にかばってしまうことが増えたということです。「~さんに~と言われショックを受けた」「~さんに~と言われイライラした」というような話を聞いたとき、その話をしてきた相手に同情する気持ちがあったとしても、「でも~さんもこういう立場だからその目線で考えるとこういう考えになってしまうのかもしれない」のようなことを話してしまうという感じです。愚痴や相談で出てくるようなこういった話は、そうだねとまず聞いてあげるのが良いかと思うのですが、反射的に全員の立場を考える癖が付いています。悪いことではないとは思うのですが、それが話してくれた相手にとって嬉しい返答なのかは考えたほうがよさそうです。余談でした。

同棲を始めて「常識」の差に気づいた

同棲を始めたことも自分がはっきりした意見を持てなくなった要因の1つになっていると思っています。お互いに一人暮らしをしていた同士が急に一緒に暮らし始めるわけですから、もちろん様々な習慣や考え方の違いが表面化してきます。しかし自分が気になったのはそこではなく、自分が親に教えられ当たり前のようにやってきた生活の基礎的なことが、他の家では結構違うということに気づかされたのです。バスタオルを変える頻度、玄関の整理の仕方、手洗いうがいの仕方などです。私の家は習慣にすることについて必ず理由を付けて教えられました。「~だから~するようにする」「~にならないように~してはいけない」といった感じです。意味を考えずにただ習慣になっていたというよりは、きちんと自分の中で納得して習慣化しているものなので、そこに差があることには驚きました。

もちろん何も考えずにただそうしている、というものがあれば、「こういう理由があるから自分の家ではこうしてきたけどこうしない?」という話ができますが、相手側も理由があってそうしてきた習慣があると、確かにそれも一理あるな、と自分の過去生きてきた常識が崩れるような感覚になります。納得感があれば簡単に常識が崩れる、これも大人になってからはっきりした意見を持てなくなってきたことに繋がっていると感じています。では相手の常識が世間の常識かというとそうではないというか、たった2人の間で異なることがある時点で「世間の常識」なんてものは存在しないのではないかと思ってしまいますね。

自分ごときが人に影響を及ぼしたくない

非常に影響力の大きいインフルエンサーは一貫性のある発信をして内容に責任を持つべきだと思いますが、私のような(少なくとも現段階では)ほとんど影響力の持たない個人の発言や意見は正直ブレブレです。知らなかったことを知って根本部分の間違いに気づけば、簡単に意見がひっくり返ります。一方で、ネットでは簡単に知らない人の発信を見ることができ、私のように「こういう考え方もあるんだ」とそれを受け止める人もいます。そう考えると、インフルエンサーでなかったとしてもあまりに極端な発言や認識の誤った発信をしていると、他人に影響を与えてしまう可能性があるのです。

これは自分に対する甘えでもありますが、これだけ色々書いていながら自分の考えを根底からひっくり返すことを否定したくありません。ある意見の発信に対して反対の意見を持つ人からの痛い指摘が来たとき、それを認めざるをえないはずの状況でも後に引けず無理に自分を正当化している人をよく見ます。私はそういった頑固な人にはなりたくなく、そういう意味で過去の自分の考えを大きく変えて別の考えを持つに至ることはそこそこあります。そうなってくると、今の自分とは違う考えを持つ過去の自分がネットに残したメッセージが、誰かに悪い影響を与えてしまうのではないかと思うようになってきます。結果的にこれもまた、後から見てもそんなに影響力を持たない、当たり障りのない発信になってしまうというわけです。

これは余談ですが、政治ってあれもこれも考えないといけなくて難しいですよね。政治家でない個人が、国や地域の政治に対して全ての範囲を網羅した意見を理由を付けて考えておくことはかなり難易度が高いです(というかそういう人は政治家になったほうがいいです)。そう考えると、自分が分かる範囲でこういう意見を持っている、この話はあまり詳しくは分からないけどなんとなくこうあるべきだと思う、というレベルの状態で、自分に考えが近い人・政党に投票することで自分の意思表示ができる選挙制度って、私のようなはっきりした考えを示したくない人にとってピッタリの仕組みなのでは?って思いました。どうでもいいですね。


ここまで色々書いてきましたが、そもそもこんなふうに自分の考えを書いていることや、ブログで日々記事を書いていることは今までの話と矛盾しない?と思う人もいると思います。はい、矛盾しています。影響力が無いと思っている自分でも影響を受ける人はいるから発信が怖い、というふうに書いたものの、正直まだ今のブログの閲覧数(1日200PV弱)のレベルではそこまで強い実感はありません。結構適当な記事も書いています。1日1万PVのブログに成長したとしたら、いつかの段階で怖くなってやめてしまうかもしれません。それはそのときになってみないと分からないですね。

じゃあなんでこんな記事を書いているのかという話ですが、結局はこういう考えをしている人もいるんだと認めてほしいところがあったり、保身に走っているようなところはあると思います。たくさんの人に見てもらいたいのに、攻撃はされたくない、影響も与えたくない、なんともワガママなブログの存在を許してほしいのかもしれません。

最後にもう1つ付け加えると、色々書いてきたこれらの話も、もっと広い世界を知っている人やもっと深い考えを持っている人からしたら甘いものだと思われるんだろうなと思っています。

このブログの一番最初の記事である上の記事の最後にも、

っていう私の考えは、「好きなものでも批判的なことを言ったりする俺を受け止めてほしい」っていうワガママから来ていたりするし、そもそもこの考え方が実はさらにもっと広い視野を持った人から見たら井の中の蛙状態なのかもしれないっていうね。面白いね。

って書いてありました。考えは簡単に変わるって書いておきながらこのあたりの考えが変わっていないっていうのも面白いですね。

というわけで考え事でした。それではまた。

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